東南アジア インドネシア編(その2)

インドネシア第二の都市である東部に位置するスラバヤでは重工業関係の部材が生産されていました。インドネシアは石油産油国です。

これを目的にオランダはインドネシアを植民地化していました。

現在シェル石油に繋がる「ロイヤル・ダッチ」社は、オランダ領東インド石油開発会社を設立、石油開発に着手したことに端を発します。

スラバヤ周辺でオイルパイプ他石油プラント関係の設備を主に日本の商社の管理下で生産をしていました。

主に日本の鋼材を用いていました。

スラバヤは第二次世界大戦で日本軍の本部が有り山下将軍も常駐していました。オランダ政府によって投獄されていたスカルノらインドネシアのリーダーを日本軍は解放し、日本政府統治下のインドネシアの政府リーダーとしてスカルノを起用しました。

結果として戦後オランダからの独立戦争の起点となり、後の大統領になるスカルノを独立運動のリーダーとして残留日本軍兵士も参謀将校役となって独立戦争に参加した為、日本人に対して年配のインドネシアの方は大変好感を持っています。

インドネシアの金属加工業のお客様を訪問すると年配の社長は日本語を話します。多くの企業は殆どが中国系です。

経済的にはインドネシア人よりも中国系の人々が支配しています。

中国人の社長さんは完全な日本語を話します。

しかし息子たちは中国系に関わらず、インドネシア語と英語を話します。応接間に通されてアイスクリームをごちそうしてくれました。法律で中国語を学ぶことが禁止されていた時期が有ったそうで、中国系にも関わらず中国語が話せない若者がいます。

そこでお父さん社長とは日本語で、息子工場長とは英語で会話するという事態となります。

タイでも中国系企業で日本語と英語の打ち合わせになるケースが良くありました。

このような事態はシンガポールでも一時期に存在しました。

法律で共用語を全て英語にした時期が有ったのです。

その結果シンガポールの二代目の首相であるゴー・チョクトンは中国系にも関わらず中国語を学校で学んでいない世代だったので、中国語が上手に喋れず首相になってから一生懸命中国語を学びなおしたそうです。

インドネシアで私が訪問した金属加工業者は比較的大きい企業です。

従業員2050人位の企業で、設備は結構新しい設備も有りましたが日本から買った中古の単発プレスなども見受けられました。

因みに以前は東京の下町の業者が作っていた金属製の時計バンドは、その後金型とプレス機械ごと香港に売り飛ばされ、一時期はステンレス製時計バンドといえば香港が世界の生産地でした。

ところが香港のプレス業者はそれをインドネシアと中国本土に売り飛ばし、現在ではインドネシアと中国本土でステンレス製時計バンドが作られています。

ステンレスの時計バンドの金型はかなり小型精密なものですがステンレスの品質に依っては金型の持ちが極端に悪いことが時々発生しました。

通常50万回位持つ金型が5万回で摩耗してしまうという問題です。

最終的には解決しましたがステンレスの製造過程における表面品質の作りこみ方法に原因が有りました。

現在では解決されどこのメーカーでも、どこの国のステンレスでも問題無く各国で時計バンドを製造しています。

日本製の金型を使いこなすとともに自社でも同様な金型が制作できるようになりました。

つづく。次回インドネシア編(その3)お楽しみに~♪

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